昨日は例年のように会社でも館内放送が流れ、震災のあった時間に一分間の黙祷がありました。
会社で私も被災したから、8年前に同じ場にいた当時とほぼ変わらないメンバーで一緒に黙祷しました。
2011年の3月11日という日は、実は翌日に私の弟の結婚式で福岡に帰省する予定でした。なので、3−4泊するスーツケースと結婚式で着るドレスを入れたガーメントバッグを会社に持って出社し、15時には早退して、16時半発くらいの飛行機で福岡に発つという段取りでした。
そんなときに大地震。
ガランとした低層階の会議室にいた私は、揺れはこれまでに経験したことのないほどに大きかったものの、怖いと感じるまではなかった。
「混乱する前に早く出た方がいいわよ、タクシーで羽田まで行ったら?」という先輩の声に(今思えばエレベーターも動いてないし、電車も簡単に動くなんてありえないのですが)、いそいそと帰り支度を始めようと自分のフロア10Fに戻ったら、ひどい惨状。モニターは倒れ、棚のものは全部落ち、足の踏み場もない状態。同僚は怯えた顔をしている人もいて、この階はかなり揺れたんだなと感じたあたりで大きな余震。天井が落ちてきて、これはただ事ではないなと。
テレビをつけたら、あの津波の映像がそのうち流れてきて、あーこれはもう帰れないなーと思いました。
結局その日は、スーツケースを2時間転がしながら、徒歩で帰りました。同僚は、夜な夜な歩き続けて、千葉の房総まで半日以上かけて帰った人もいます。
実家では、こんな事態だし、もう無理して帰ってこなくていい、とも言われたんだけれどなんとか帰ってお祝いしてあげたい、と思いました。ただ、弟夫婦も「こんなときに不謹慎なんじゃないか?」と結婚式の中止も直前まで考えていたそうです。東京からの参列者も多かったので、実際来られなくなった人続出でした。
ただ結局、その日は羽田は閉鎖。新幹線は途中まで動いていなかったから、飛行機しか選択肢なし。翌日午後からは動き出したんだけど、朝から航空会社に電話が繋がらない。じゃあ空港に行っちゃえーって。そこでどうやって席を獲得したかはもう覚えていないのですが、なんとかチケット確保。夕方に福岡に到着。結婚式には間に合わなかったけれど、披露宴の最後の花束渡す辺りになんとか滑り込みセーフ。
そんな3.11ごろの出来事でした。
それから1ヶ月も経たないうちに、一緒に長く住んでいた祖母が亡くなり、その数ヶ月後にはひまわりん自身が自己免疫性肝炎を発症し、長期の入院。母にとっての2011年は祖母の看病が明けてすぐに今度は娘の看病、というおめでたいこともありながら、辛い時期もあった激動の一年でした。
悲しい出来事ではあったのに変わりはありませんが、振り返ってみると、2011年3月11日という日はいろんなことの始まりになっていたような気がします。
と、いったことを書きながら、昨日は寝落ちしてしまいました。実は自転車衝突事故以来、逆流性食道炎が悪化していて、食べ物を食べると胸のつかえが強く、吐き気がします。吐き気だけで実際に吐きはしません。胸骨、胸椎が痛いのも関係しているのかなぁ・・・。
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2日分の歩数記録と食事記録はこの下にあります。
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